馬飼野俊一

大衆音楽の殿堂入り(作曲・編曲)

編曲家 馬飼野俊一

一連のヒット曲の場合、普通、歌手名と曲名は知っていても、そのヒット曲を生み出した作家名まで知ってる方は少ないと思います。編曲家に至っては、ほとんどの方が知らないと思います。

「名曲探偵 馬飼野俊一&半田健人の座談会(YouTube)」、BSテレ東2025年7月25日放送の「武田鉄矢の昭和は輝いていた」を視聴して、編曲が歌に輝きを放つこと、長年編曲に取り組んでこられた馬飼野俊一の功績に感銘を受けたので、ここに両番組から曲名毎に編曲の裏側を紹介します。

編曲に耳を傾けると、歌が10倍20倍と楽しくなることでしょう。ぜひ編曲の魅力を知っていただければ幸いです。

馬飼野俊一が考える編曲論

楽曲制作は、作詞を土地、作曲を家の骨組み、編曲を内装、そして歌手を住人に例えることができる。

  • 作詞は、日当たりや風通しの良い土地を選ぶことが重要。
  • 作曲は、頑丈な建物を作り上げることが重要。
  • 編曲は、内装を施し、住人である歌手が心地よく感じられるように仕上げることが重要。
  • 歌の雰囲気を引き立てるのが編曲であり、編曲家は、詩、曲、メロディーを理解し、楽曲を生かすために最適なサウンドを構築する。
  • 歌詞は編曲において非常に重要であり、歌詞がないと編曲しにくい。歌詞によって曲の雰囲気や表現が変わるため、編曲家は歌詞を理解した上で編曲を行う必要がある。
  • 編曲を行うには様々な楽器の知識が必要である。
  • 編曲は、譜面作成だけではなく、スタジオ業務や指揮、演奏者への配慮も必要である。
  • 演奏者の得意な音域やグループの特性に合わせたアレンジを行うことが大切である。

編曲の魅力

作曲よりも編曲の方が、様々な楽器の組み合わせを試す楽しみがあり、作曲よりも奥深いと感じている。

経 歴

1万2,000曲以上の編曲を制作し、和田アキ子の「笑って許して」で日本レコード大賞編曲賞を受賞。チェリッシュ、野口五郎、アグネスチャン、美川憲一、天地真理、森進一、細川たかし、北原ミレイなど、幅広いジャンルの楽曲を手がけ、数多くのヒット曲を生み出している。

編曲家の原点

馬飼野俊一の父、馬飼野昇は、ギタリストでありながらカレーの製造業を営み、バンドマンとして活躍していた。
馬飼野俊一は、弟・馬飼野康二とともに、幼少時から家族でタンゴバンドを結成するなど音楽活動に親しんでいた。
父が作曲した「東京オリンピック音頭」がコンテストで優勝し、ピアノが賞品として贈られた。
ピアノが馬飼野家に届くと、馬飼野俊一と康二はピアノを時間ごとに交代して演奏し、音を出すことで音楽を学ぶようになった。
馬飼野俊一は、当初トランペットを希望していたが、父からフルートを勧められ、中学2年でフルートを始めた。その頃、アレンジに興味を持ち、吹奏楽や映画音楽の譜面を書くようになった。
当初はフルートの演奏家を目指していたが、東京に出てプロとして活動したいとの思いから、昭和40年、19歳で上京し、ナイトクラブのバンドマンとして活動。その後、ボンミュージックで編曲家としてのキャリアをスタート。1ヶ月で60曲以上アレンジしないと給料がもらえないという契約だったため、多い時はカバーや歌のない歌謡曲を月に150曲アレンジした。

夜と朝のあいだに

昭和44年(1969年)、23歳の時にピーターのデビュー曲「夜と朝のあいだに」の編曲を依頼された。
ソプラノサックスや女性コーラスのスキャットで構成したイントロは、高音域を多用しており、続くボーカルも同様に高音であることが予想される。しかし、実際に「夜と・・・」と歌い出すピーターの声はとても低く、その意外性に聴く人の耳を引くのではないかと考えた。
その狙いが見事に当たって、大ヒットし、馬飼野俊一の出世作となった。

笑って許して

昭和45年(1970年)、和田アキ子の「笑って許して」の編曲を手掛け、24歳という若さで編曲賞を受賞。
当時、スタジオミュージシャンは年齢的に先輩が多く、生意気と思われないよう、実年齢よりも年上に見えるように30歳と偽っていた。髭を伸ばし、色眼鏡をかけ、無愛想な態度をとっていたようである。
24歳での最年少受賞は、現在もなお、更新されていない。

さだめのように川は流れる

昭和46年(1971年)発売の杏真理子の「さだめのように川は流れる」は、阿久悠作詞、彩木雅夫作曲、馬飼野俊一編曲の楽曲。彩木雅夫は、前川清の代表作品「長崎は今日も雨だった」を手がけた作曲家。
「さだめのように川は流れる」はヒット曲ではないが、半田健人が隠れた名曲として紹介している。
イントロには、ホラー映画のような不気味さを感じさせる演奏がある。
杏真理子は、情念を感じさせる独特な雰囲気を持つ歌手で個性が強く、当時彼女の声質と歌い方は珍しかった。馬飼野俊一の編曲は彼女の個性に負けない工夫がなされており、彼女の歌声をよく引き立てている。
編曲は歌の雰囲気を引き立てるものを象徴する作品として注目に値する。

虹を渡って

昭和47年(1972年)発売の天地真理の「虹を渡って」は、誰もが知る大ヒット曲であり、オリコン1位を獲得した。
この楽曲は、アイドルポップスに必要な要素が全て詰まった作品であり、ドラムイントロは、当時流行していた田中清司のドラムスタイルを反映している。
女性のコーラスによる「ルルルンルルルン」というフレーズは可愛らしさを演出しており、歌詞と歌詞の間に挿入される「ピピピン」というエレキギターの音は、当時としては斬新な手法だった。
歌謡曲において重要なのは、歌メロディーと歌メロディーの間にある合いの手であると、半田健人はこの曲から学んだと語っている。

ドラマー田中清司

田中清司は、昭和歌謡の流れを変えたドラマーとして知られている。スタジオミュージシャンとして、数多くの馬飼野俊一の作品でドラムを担当した。馬飼野俊一のレコーディングにおけるドラムは、ほとんどが田中清司の演奏であり、その割合は8割にも及ぶ。ドラムはチューニングが雑になりがちだが、田中清司はチューニングに一切の妥協を許さず、彼のチューニングは独特で、ティンパニーのように「ドーン」と叩くと、その後「ドゥ~ン」と響き渡る。

さそり座の女

昭和47年(1972年)発売の美川憲一の代表作「さそり座の女」を編曲。馬飼野俊一は、1曲あたり平均2時間でアレンジを仕上げるが、「さそり座の女」は1時間弱で仕上げた。
新人歌手のアレンジを依頼されようが、美空ひばりのような大御所から依頼されようが、どのような歌詞であっても2時間で仕上げなければ、翌日のレコーディングに間に合わないためである。
「さそり座の女」は手抜きのアレンジと評されるかもしれないが、短いから長いからアレンジが変わるわけではない。ひらめいた音を譜面に書き留めるだけである。

てんとう虫のサンバ

チェリッシュの昭和48年(1973年)発売の楽曲「てんとう虫のサンバ」は、作詞:さいとう大三、作曲・編曲:馬飼野俊一による作品。
この楽曲は、チェリッシュ最大のヒット曲となり、当時、テレビやラジオで連日放送され、全国的に人気を博した。
興味深いことに、メインボーカルの悦子の歌声を聴いて作曲されたのではなく、アルバムに収録されていた馬飼野俊一作曲の楽曲を、大阪のラジオ番組で時間調整のために流したところ、多くのリクエストが寄せられて好評を得たため、シングルカットして発売した結果、ミリオンセラーに輝いた。この楽曲の特徴として、田中清司による「タカタカタカタカタカタカトントン タカタカタカタカタカタカトントン」という2回のドラマティックな音で始まる点が挙げられる。2回の繰り返しの意図は、手を抜いたものではなく、印象を強く与えるためである。当時、アナログレコードの針が飛ぶと、もう一度繰り返されることがあった。この「あれ、針が動いたんじゃないか?」という聴き手の心理を突いた馬飼野俊一の編曲が、この楽曲の成功に貢献したと言える。

青い日曜日

昭和47年(1972年)発売の「青い日曜日」は、馬飼野俊一が手掛けた初の野口五郎作品。
野口五郎は演歌でデビューしたが、歌謡ポップスを歌いたいという希望があり、ディレクターと共に馬飼野俊一の自宅に訪れた。馬飼野俊一は15歳とは思えないほどの迫力ある歌声に驚嘆したと言う。そこで、馬飼野俊一は野口五郎の歌唱力を生かした楽曲制作を構想。前半はしっとりと、後半は力強く歌い上げる構成で、野口五郎のハートブレイカーの歌唱を参考にメロディーが作られた。

君が美しすぎて

昭和48年(1973年)発売の野口五郎の「君が美しすぎて」は、初の海外録音作品。
ロンドンのアイランド・スタジオにおいて、エンジニアにフィル・ブラウンを迎え、ラリー・カールトンをはじめとするトップクラスのミュージシャンやフランスからコーラス隊を招き、豪華な体制でレコーディングが行われた。この楽曲で野口五郎は同年末の「NHK紅白歌合戦」に2度目の出場を果たす。
海外レコーディングでは、馬飼野俊一がフォルテと感じる譜面が、ロンドンではフォルテシモと解釈されるなど、馬飼野俊一は自身が書いた譜面ではないように感じたようだ。
この楽曲は3連のロッカ・バラードであるが、出だしの「美しすぎて」は、当時早口で野口五郎も歌いづらいと感じていたほど難しく、馬飼野俊一は当初、メロディーをゆったりとした方が上手く表現できると考えていた。しかし、最終的には「美しすぎて」を1回で言わないと間延びしてフレーズが面白くないと直感し、一発で言わせた方が良いと判断し、それをメロディーに乗せた。
この曲には転調の仕掛けもあり、曲の最後に半音で転調する際、他の歌謡曲とは異なり、ストリングスやベースの演奏で間を空けずに一瞬で止めるという仕掛けが施されている。曲の途中で突然止まり、ドラムとベースの半音転調で盛り上げる演出は、コンサートではファンの熱狂的な反応を引き出す効果がある。

馬飼野俊一が野口五郎55周年記念コンサートを観覧して


左から半田健人、野口五郎、馬飼野俊一

野口五郎の声量は、長年の活動を経てもなお衰えを感じさせず、むしろ現在の方が力強く感じられる点に驚嘆した。一般的に、半世紀にも及ぶ歌唱活動においては、半音、あるいは1音を下げて歌唱するケースが少なくなく、野口五郎が常に挑戦を続ける姿勢で、高いキーの楽曲を歌い続けている、そんな音楽に対する情熱に感銘を受けた。(馬飼野俊一)

弟の馬飼野康二はライバルだった?

馬飼野俊一が活動していた昭和時代、弟の馬飼野康二もまた、西城秀樹のメインライターとして活躍していた。
馬飼野康二は、西城秀樹の「情熱の嵐」、「激しい恋」などの他、「愛のメモリー」、「男と女のラブゲーム」といった数々のヒット曲を世に送り出した。
2人の関係は、ライバル意識というよりも新曲制作における探り合いのようなものだった。
同じマンションに住んでいたため、頻繁に顔を合わせていたが、互いに同じような曲を作らないよう、新曲の傾向を意識して探り合っていた。
馬飼野俊一と馬飼野康二は兄弟だが、作風は全く異なる。

襟裳岬

昭和49年(1974年)に発売された森進一の29枚目のシングル「襟裳岬」は、100万枚を超える大ヒットとなった楽曲。森進一はこの楽曲で、第16回日本レコード大賞と第5回日本歌謡大賞をダブル受賞。

「襟裳岬」は、元々はフォーク系シンガーソングライター吉田拓郎の楽曲だったが、馬飼野俊一による編曲により、楽曲の雰囲気が大きく変化した。

吉田拓郎は、旅の途中で列車の窓ガラス越しに映る自身の顔をイメージして歌っていたが、馬飼野俊一は、海を眺めた景色、港に船が入ってくる景色をイメージしてトランペットを汽笛に見立ててイントロを制作した。

馬飼野俊一が編曲した「襟裳岬」を森進一がレコーディングし、ディレクターが吉田拓郎の自宅にそのデモテープを届けたら、吉田拓郎は、腕を組んで聴き始め、パーンと音が鳴り始めると「おい、お前、違う人の歌をもってきただろう。」とディレクターに尋ねるほど驚いたそうだ。

吉田拓郎は、最後まで聴くと「うん、襟裳岬だな。」と感服し、後にラジオ番組で「このアレンジには本当に驚いた。どういう発想でこのイントロが生まれたか、全く分からない。」と語っていた。

馬飼野俊一の「襟裳岬」の直筆スコアには、一番上の五線譜に作曲家が手掛ける部分があり、その下の五線譜には楽器の譜面がびっしりと書かれている。面積の9割は編曲家が手掛ける部分で、1曲制作するのに、鉛筆1本をまるまる使い切ったようである。

馬飼野俊一の頭の中には楽器の全ての音がインプットされており、このように書けばどんな音が出るのだろうではなく、このように書けばこの音が出ると確信して譜面を書いている。

石狩挽歌

昭和50年(1975年)発売の北原ミレイ8枚目のシングルは、100万枚を超える大ヒットとなり、北原ミレイの代表曲となった。

作詞はなかにし礼、作曲は浜圭介による楽曲。当初、北原ミレイは浜圭介の歌うデモテープを聴き、幻滅を感じ、歌うことを拒否した。スタッフから「アレンジが出来上がるまで待って下さい。」と告げられたが、「冗談じゃない。こんな曲歌えるわけがない。」と心の中でつぶやいていたそうだ。

後日、馬飼野俊一によるアレンジのテープを聴くと、「パーンパーン パパパパパ~ン」と音が鳴った途端に、「あれ、これ歌える!すみません。この曲歌わせて下さい。」と自ら申し出た。

「石狩挽歌」のアレンジにあるトランペットは演奏が非常に難しく、北原ミレイがステージで歌う際は、常にトランペッターは、本番で失敗しないよう、パア~ンパア~ア~ンと何度も何度も練習するなど、ミュージッシャン泣かせの曲であったようだ。

また、この曲は、馬飼野俊一が編曲賞を受賞した楽曲であるが、スタジオミュージシャンとのレコーディングで、馬飼野俊一自ら楽器のチューニングにこだわった曲である。

田中清司のチューニングしたドラム音を馬飼野俊一が自身の耳で聴いて、一つずつ確認し、「これで行こう!」と決定を下した楽曲は、1万2,000曲の中でもこれしかない。他の楽曲は全てプレーヤー任せで制作している。

リスナーが「一瞬何これ?なんか聴いたことがない音だね。」と思わせることを狙い、ベースとドラムが一緒になって聴こえた後にパーンとブレイクするように編曲した。

北酒場

「北酒場」は、馬飼野俊一の最高傑作と称される楽曲であり、1982年(昭和57年)に発売された細川たかしの18枚目のシングルとして大ヒットを記録。同年、『第24回日本レコード大賞』を受賞し、『第33回NHK紅白歌合戦』で披露された。

馬飼野俊一は、「石狩挽歌」以降、ヒット曲に恵まれず苦悩していた。ヒット曲を生み出せなければ、自身の立場が危うくなるのではないかと危惧し、三日三晩イントロを考えた。

出来上がったイントロは、「チャラジャラジャラうんうんチャラジャラジャラ・・・」と2つの休みを入れたものだった。通常は休みを入れずに「チャラジャラジャラジャラジャラ」と流れる。

人間の心理として、一度音を聴くと「次に何の音が来るのだろう?」と期待するものであり、休みを入れないと次の音がすぐに分かってしまうため、ワンクッションを設けて2つの休みを入れたようである。

この楽曲に関して、作曲を担当した中村泰士は、細川たかしに「こぶしを入れなくて良いから『北の・・・』とストレートに歌いなさい。」とアドバイスした。ところが、細川たかしは「北のオオオオ~」と歌ったため、スタジオにいたスタッフ全員が大爆笑。そして「おい、たかし、その歌い方はないだろう。シンコペーションでストレートに歌わなきゃだめだよ。」と注意され、約一週間、細川たかしは歌い方を勉強し、スタジオに入ってレコーディングを行った。

こぶしを入れない歌い方で、全く力みの感じられない軽快でリズミカルなポピュラー要素のある歌になった。

馬飼野俊一の編曲

  • 曲の完成までに2時間という限られた時間でアレンジを行う。
  • 作曲家が提供したデモテープを繰り返し聴き、楽曲に合ったサウンドを創造する。
  • 編曲家としてデビューする前はポール・モーリアやサンタナなどを聴いていたが、現在は自身の音楽性を保つため、様々な音楽をリスナーとして楽しむことは行っていない。
  • 常に新しいものを追求したいので、昨日作ったものを忘れようという意識を絶えず持っている。
  • 最初にひらめいたイントロを大切にしている。
  • 編曲は、1曲の中で1箇所でもリスナーを驚かせるアクセントを付けることが重要である。多すぎると効果が薄れる。
  • 睡眠は2時間単位で、目覚ましなしにぴったり起きる。目覚めるとすぐに仕事に取りかかる。
  • 頭の中で音を創造し、それを五線譜に書き下ろしている。
  • 最近は演歌の仕事が多いが、ポップスや演歌の使い分けはせず、依頼された曲に合わせたサウンドを作っている。

やりがい

編曲は苦しいが、世に出た時の喜びが待っている仕事でやりがいがある。

今後

これからはそんなに長く制作できるとは思っていないので、1曲1曲リスナーの心に響く、後世に残る歌を1曲でも多く作りたい。

モットー

音楽は永遠の恋人

編曲家 馬飼野俊一の代表曲(昭和時代)


投稿:2025年8月13日
シンガープロ 安藤秀樹

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