馬飼野俊一(まかいの しゅんいち)トークイベント『私の音楽人生』聴講記 2026年6月14日
令和に蘇る昭和の黄金期 馬飼野俊一先生とチェリッシュが語った音楽への愛
馬飼野俊一(まかいの しゅんいち)氏の「私の音楽人生」トークイベントが、2026年6月14日に古賀政男音楽博物館 けやきホールで開催された。
馬飼野先生は、昭和の日本に大旋風を巻き起こしたチェリッシュの『てんとう虫のサンバ』をはじめ、数々の名曲を作曲・編曲された偉大な音楽家である。
イベントは2部構成で行われた。第1部では、昭和歌謡を深く愛する俳優の半田健人氏を聞き手に迎え、ステージ中央で椅子に腰掛けながら、名曲誕生の舞台裏を紐解く対談形式で進行。第2部では、チェリッシュの松崎好孝さん・松崎悦子さんの2人をゲストに迎え、4人での賑やかな座談会が繰り広げられた。
馬飼野先生の父親は、豊橋でカレー屋を経営するかたわら、自らも東京にギターを持っていくほどのギタリストであった。長男である馬飼野先生は、高校卒業後は当然のように家業を継ぐ予定だったという。しかし、音楽への情熱を抑えきれず、自身はフルートを抱えて上京。これが音楽家としての全ての始まりとなった。その後、兄の背中を追うように弟の康二氏も音楽の道へと進み、やがて兄弟そろって昭和歌謡界を代表する作曲家・編曲家として活躍することになる。
のちに馬飼野兄弟がこの世に送り出した楽曲は、2人合わせてなんと2万曲にものぼる。半田氏が「もし2人ともカレー屋を継いでいたら、この2万曲は存在しなかったかもしれないですね」と語っていたが、もしそうだったとしたら、昭和の歌謡界は本当に味気ないものになっていただろうと、私はしみじみと思った。
馬飼野先生の情熱と耳の良さは、高校のブラスバンド部時代から際立っていた。地元の公民館に来た一流バンドの譜面をステージ裏から盗み見て勉強したというエピソードは有名だ。この経験こそが、のちにトランペットやトロンボーンといった管楽器を縦横無尽に駆使する、きらびやかな「馬飼野アレンジ」の決定的な礎になったのだろう。
上京後は、師匠として仰ぐ斉藤恒夫氏を頼りに専属バンドで生活費を稼いだ。
そして昭和42年、「ボンミュージック企画」との専属契約を交わすが、そこでのノルマは「1ヶ月最低60曲のコピー・編曲」という過酷なものだった。多い時には月に150曲もの注文をさばいたという。この時代の猛烈な仕事量が、「1曲あたり2時間」で譜面を書き上げるという超人的な早業を生み出した。半田氏が「2時間で編曲する音楽家なんて他にいませんよ」と言うと、馬飼野先生は「私は凡才じゃない、天才ですから」と言って会場を笑わせた。
私が特に感銘を受けたのは、「編曲は歌手の歌声が一番引き立つようにするもので、アレンジャーの出番というのはイントロと間奏とコーラスしかない。あまり自分の音を入れちゃうと歌が死んでしまう。歌のバックは意外とサラッと書いた方がベストを引き出せる」という馬飼野先生の言葉だ。
会場で流れた美川憲一の『さそり座の女』を改めて聴いてみると、確かに歌唱中の伴奏は静かで、美川憲一の歌声がはっきりと耳に届く。その言葉に「なるほどな」と深く納得させられた。
また、美川憲一の『さそり座の女』やピーターの『夜と朝のあいだに』が話題にのぼった際、半田氏から「お二人とも声が低いですが、イントロで高い音を出して、低い歌声で始めさせるというのは意図的ですか」と質問が飛んだ。馬飼野先生が「イントロも歌も低いままだと、平行線をたどって歌のインパクトがなくなってしまう。だから聴く人に『おや?』と思わせるように作った」と答えられたのも非常に興味深かった。
歌手の歌声を100%活かすために、常に歌手の顔や歌唱表現を思い浮かべながら編曲しているというお話からも、プロフェッショナルとしてのこだわりが垣間見えた。
先生の編曲に散りばめられた「現場のこだわり」を伝えるエピソードは尽きない。
1970年のヒット曲、和田アキ子の『笑って許して』では、アメリカから入ってきたばかりの最新の楽器が使用された。しかし当時、楽器のペダルを足で踏みこなせなかったため、ギターを弾きながら、馬飼野先生が手でペダルを動かすという中で録音されたという。何度もやり直すうちに腱鞘炎になりかけたため、4回目は挑戦せず3回目でレコーディングを終えたそうだ。完璧に納得のいく音ではなかったかもしれないが、かえってその絶妙な粗さが意外性を生み、聴き手を惹きつけることになった。結果として大ヒットしたのだから、その現場の判断は間違いなかった。
完璧さに縛られない面白さは、第2部の座談会でも語られた。チェリッシュの松崎悦子さんが、あるレコーディングの際に3回目のテイクに納得がいかず「4回目を歌わせてほしい」と申し出たところ、ディレクターから断られたという。必ずしもガチガチの完璧さを求めない緩やかさこそが、当時の音楽の魅力を生んでいたのだろう。
昭和49年に大ヒットした森進一の代表作『襟裳岬』のイントロでは、港に入ってくる船が汽笛をパーンと鳴らすイメージをトランペットで表現しているが、そのバックでかすかに「ジリ、ジリ」の音が鳴っている。半田氏からこの細かい演出を指摘され、改めて会場で音源を聴き直してみると、確かに微かにその音が聴こえてきた。私は今まで全く気づいていなかったのだが、馬飼野先生は「3分間の映画を一本仕上げるつもりでその効果音を取り入れた」と明かした。素晴らしい映像的アプローチである。
さらに驚いたのは、当時多忙を極めていた馬飼野先生は、実際には襟裳岬に一度も足を運んでいなかったという点だ。写真や映画などでイメージを膨らませて書いたそうだが、あのイントロを聴くだけで北海道の果てしなく広大な景色が目に浮かんでくるのだから、やはり先生は天才だ。
美川憲一の『さそり座の女』は時間がなく45分ほどで仕上げた一方で、細川たかしの『北酒場』のイントロには三日三晩かかったというお話も実に面白かった。
細川たかしは当初、『北酒場』を制作陣の意図通りに歌えず苦労していたようだ。民謡や演歌独特の「こぶし」やタメが染み付いており、軽快なポップスのリズムにどうしても乗れなかったのが原因だという。細川たかしは約1週間かけて歌い方を勉強し、再びスタジオに入ってレコーディングに挑んだ。その結果、まったく力みの感じられない、爽やかでリズミカルなポップスの歌声となり、一躍大ヒット曲となった。これはまさに、従来の演歌の枠を飛び越えた馬飼野先生の斬新な編曲の賜物だ。
天地真理の『恋する夏の日』にいたっては、39度近い高熱に浮かされながら執筆されたという。プロダクションが手配したタクシーでスタジオへ向かうと、いつ先生が倒れてもいいように、救急車と2人の看護師が指揮台の横に待機していたという衝撃の事実が明かされた。頭がぼーっとする中で必死に書いたというこの歌は、のちにオリコン1位を獲得するのだから凄まじい。私はこの舞台裏を全く知らなかったので大変驚いた。私はこの歌が大好きだ。天地真理ほどチャーミングで愛くるしく、日本全国に笑顔を届けてくれたアイドル歌手は、この先二度と現れないだろうと思っている。
続く第2部では、チェリッシュのお二人と馬飼野先生の深い絆、そして誰もが知る名曲『てんとう虫のサンバ』や『白いギター』の誕生秘話といった爆笑エピソードをたっぷりと聴くことができ、本当に楽しい時間となった。
馬飼野先生は熱を帯びた様子で、よどみなく言葉が次から次へと溢れ出てくるのを見て、先生にとって、ご自身の名曲が生まれた1973年はかけがえのない時代だったと感じた。
愛知県豊橋市の同郷という縁もあるチェリッシュと馬飼野先生。悦子さんは当時の先生の印象を「若くてかっこよくて、まるでお兄さんのようだった」と振り返る。学生アマチュアバンドとして活動していたチェリッシュにとって、プロとして初めて出会った馬飼野先生のアレンジは強烈だった。好孝さんも「自分たちがアマチュア時代に演奏していたものと全然違って、本当に素晴らしいアレンジでびっくりした」と当時を回想した。
1973年には、馬飼野先生の作曲による『若草の髪飾り』が大ヒット。悦子さんが「この曲のおかげで、単なる学生バンドから『プロの歌手』として生きていく実感が湧いた」と語ると、好孝さんも「悦子はこの歌をきっかけに『本当にプロの歌手になった』と思った」と妻を讃えた。
また、座談会の中で最も会場を沸かせたのは、誰もが知る結婚ソングの定番『てんとう虫のサンバ』と、名曲『白いギター』の発売に隠された裏話だった。
当時、作詞が先にあがっていた『てんとう虫のサンバ』の歌唱依頼があったとき、好孝さんは「こんなメルヘンチックで可愛らしい歌、僕にはとても歌えないよ」と突っぱねていたそうだ。そのためシングルではなく、アルバムの一曲として収録するかたちで発売された。ところが、大阪のラジオ番組で流されるやいなやリクエストが殺到し、急遽シングルカットされる大騒動となった。
当時のジャケット写真が、一流カメラマンによる特写ではなく、手元にあった普通のスナップ写真から拾ってきたものだったというエピソードも面白い。二人とも横顔の写真なのだが、悦子さんは本当は正面の写真を希望していたという可愛い本音もこぼれた。
半田氏が「『てんとう虫のサンバ』が大ヒットしている最中に、なぜ同時期に『白いギター』を発売したのですか」と尋ねると、馬飼野先生は「『てんとう虫のサンバ』がどれだけ売れても、あの可愛らしい歌ではレコード大賞の『歌唱賞』は取れない。チェリッシュ(悦子)に歌唱賞を取らせたい、そのためには絶対に切ないバラードが必要だった」というのだ。
この戦略は見事に的中し、同年の日本レコード大賞でチェリッシュは見事「歌唱賞」を受賞、歌謡大賞では『てんとう虫のサンバ』が受賞を果たした。この事実を初めて知ったというチェリッシュの二人が、「そんな内緒の話、私たちは50年間全然知らなかった!」と目を丸くして驚いていたのが非常に印象的だった。
1975年、チェリッシュと馬飼野先生はアメリカでの海外レコーディングという一大プロジェクトに挑んだ。馬飼野先生は全曲の作曲を担当し、あえて編曲を現地のプレイヤーに委ねた。自身の書いたメロディが本場のアメリカで奏でられるのを、純粋に楽しまれていたようだ。
現地の女性コーラス隊が慣れない日本語で歌ったため、一部の歌詞を間違えて歌ってしまうハプニングもあったが、それもそのままOKにしたという、そんな大らかな時代の良き思い出も語られた。
座談会の終盤、半田氏から「『てんとう虫のサンバ』がこれほど長く愛される楽曲になることを想像していましたか?」と問われた馬飼野先生は、こう答えた。「作る時は、2時間という時間内でベストなものを作ることに全力を傾けただけで、未来に歌い継がれるかなんて考えていなかった。それは結果だから。でも、僕が書いたとか、チェリッシュが歌ったとかを通り越して、曲が一人歩きして長く愛されることこそが、音楽にとって一番幸せな運命だと思う」。チェリッシュの二人も「今ではもう私たちの手を離れて、皆さんの歌になっていると自覚しています。本当に良い曲に恵まれました」と深く頷いた。その光景は、見ていて本当に感慨深いものがあった。
チェリッシュの松崎好孝・悦子ご夫妻は、この座談会のわずか9日後に「金婚式」を迎えるという。好孝さんが「これからは後期高齢者を超えて、晩期高齢者。孫の結婚式で自分たちの歌が聴けるまで、これからも夫婦仲良く喧嘩しながら、元気で歌い続けたい」と照れくさそうに未来への抱負を語ったあと、なんとサプライズで『てんとう虫のサンバ』を生でデュエットしてくれた。
そのみずみずしい歌声は、1973年当時とちっとも変わっていなかった。当時はあまりに多忙で、自分がヒットしている実感すら湧いていなかったという悦子さん。連日連夜、テレビやラジオで繰り返し流れていたあの『てんとう虫のサンバ』を、令和の今、目の前で堪能できたのは、私にとってこの上ない至福の時間であった。
昭和歌謡は、本当に素晴らしかった。人々の心に深く残り続けるこの素晴らしい歌の数々を、ぜひ次の世代にも受け継いでいってほしいと強く願う。
最後に半田氏から「これほど多岐にわたる馬飼野先生の名曲たちが、現在、作品集としてまとまっていないのは、ファンや研究家として非常に不満。メーカーの垣根を越えて、昭和の記憶が蘇るように作りましょう!」と熱い提案がなされ、馬飼野先生も「今はCDが売れない時代で大変だけれども、頑張ります」と笑顔で応じた。
作詞・作曲・編曲・歌い手・プロデューサーが1つになり、それを聴き手が最後に応援して持ち上げてくれることで、初めて名曲は生まれる。
日本の音楽界の黄金期を築いた馬飼野先生とチェリッシュの温かい絆、そして音楽への深いリスペクトが終始溢れ出た、最高に贅沢な座談会だった。
飼野俊一の編曲論と音楽への情熱
投稿:2026年6月15日
シンガープロ 安藤秀樹
